▼1889〜1945:政治家

近衛文麿(Illustration:KUNIMORI) 1945年12月、戦犯に指名されて服毒自殺した公爵。
 第1次内閣(1937.6〜39.1)成立後、すぐに蘆溝橋事件という壁にぶつかり、はじめは「不拡大方針」を声明したが日中戦争へと拡大。12月に南京占領後、和平交渉を行ったが、陸軍に引きずられて38年1月「国民政府(蒋介石政権)を相手にせず」との第一次近衛声明を発表してしまう。元々内閣総理などやりたくないといっていた人だけにその政策はなげやりで、いつも軍部のお守り役的なものだった。日中戦争早期解決を望んでいたにもかかわらず、元来の気弱さと優柔不断が災いして、11月には東亜新秩序※1(第二次近衛声明)を発表、さらに12月には親日政権樹立を目的とした近衛3原則(第三次近衛声明)まで発表してしまう。
 第2次内閣(1940.7〜41.7)では日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結、大政翼賛会発足、帝国国策要綱決定。戦争の大義名分として「大東亜共栄圏の確立※2」を持ってきて、以後日本のスローガンとした。
 第3次内閣(1941.7〜10)では、アメリカ参戦防止のための対米交渉がうまくいかず、内閣が対立して総辞職。その後の東条英機内閣がはりきって参戦したため、日本は茨の道を突き進んでしまうことになる。
 近衛の性格がもう少ししっかりしていたら、日本に原爆は落ちなかったかも知れない。陸軍のワガママは拒否したものの、今一実行力に欠ける彼であった。


※1 日本・満州・中国による国際主義の確立、共同防共などの新秩序の建設に協力すれば国民政府を仲間に入れてあげようということ。
※2 欧米の植民地支配からアジアを開放しようという名目