▼Polotsk

 『ポロツク』は西ドヴィナ川という北海に流れ込む川の河畔にある町である。スカンディナビア(ヴァリャグと呼ぶ)方面の荷物は北海〜西ドヴィナ〜ドニエプル川〜(キエフ)〜黒海・ギリシアへと運んでいくことになり、この『ヴァリャグからギリシアへの道』の重要地点にポロツクは居座っているわけだ。
 もともとポロツクは、リュリクが自分の部下に分け与えた町だったが、気づいたらほぼ「独立公国」となっていた。そこでポロツクを取り戻そうと、ウラジミル聖公はポロツク公の娘ログネヂを奥さんにしようとした。ところがこれを拒否されたため、ポロツクを攻撃して公と息子二人を殺してしまう。それだけでも十分ポロツク側には悪印象であろうが、挙げ句の果てにはビザンツ帝国の姫を娶るために、ログネヂと自分の長男をポロツクへとっとと追い返してしまうのである。
 これが、両家間の争いの発端であった。
 まず、ログネヂの孫にあたるブリャチェスラフが、時のキエフ大公ヤロスラフと戦っている。その息子、ポロツクの英雄フセスラフは、長年に渡ってイジャスラフをはじめとするヤロスラフの子らを苦しめ続け、フセスラフの子グレブとフセヴォロド(イジャスラフの弟)の子ウラジミル・モノマフの間にも争いは起こる。最終的にはモノマフの子であるムスチスラフが1140年にポロツクの公となる血筋の者をギリシア方面に追放するという復讐を果たすことで、決着となる。
 ウラジミル聖公にポロツクが攻撃を受けたのが980年のことであるから、「『永遠の』争い」と呼ぶには少し短いような気もするが、実に六世代に渡る争いなのだ。
 この「永遠の争い」の中で注目すべきは、やはりフセスラフである。研究者の中には「1068年のキエフ民衆暴動は、フセスラフがキエフ大公を狙って実行した計略である」と結論しているヒトがある。しかし、これを「永遠の争い」の流れの中で見ると、どうも説が怪しいような気がするのだ。
 なぜなら、フセスラフはキエフ大公になった翌年、キエフを取り返しに来たイジャスラフ軍を前にして、戦いもせずにこっそり逃げてしまうのである。『血まみれ人狼公にして英雄』のフセスラフが、だ。暴動がフセスラフの作戦だとすると、ここであっさりキエフを捨てる理由が見つからない、が、「永遠の争い」を思い出すと、この理由が見えてくるような気がする。
 結局、ポロツクにとって「キエフ」と「キエフ公」はやはり“敵”なのである。つまり「キエフ公を倒す」ことは彼やポロツクの悲願だとしても、「キエフ公になる」ことが目的ではないのではないか?と思うのだ。ポロツク公が行動を起こすとき、最初に狙うのは必ずノヴゴロドであり、ノヴゴロドを占領すると大抵さっさとポロツクに引き上げようとしている(その途中にキエフからの軍隊につかまって負けちゃったりする)。
 思うに、彼等はあまり「キエフ大公を中心とするキエフ公国」というものを意識していなかったのではないだろうか。ポロツクは「最後のヴァリャグ公国」と言われる。つまり、海の向こうからやって来たポロツクの公たちにとっては、彼等の居着いたポロツクこそが都であり、キエフなんかは所詮「南の田舎町」としか思っていなかったんじゃないか、という気もする。とすれば、このカッコイイ「永遠の争い」も「イナカモノ同志の争い」ということになって、ちょっと可愛く思える、そんな結論なのだった。