リディアという小アジアの国は、世界最古の鋳造貨幣を使用したことで有名である。当然のコトながら、「貨幣」という「共通の価値」は商業の発達を大いに推進し、モノには「値段」という判りやすい札がつけられることになる。
 じゃ、それまでは一体どうしていたのか?
 貨幣登場以前の商業は、物々交換か金銀の比重による換算で行われていた。物々交換では、売買する場所によってモノの価値が違うことがあるし、金銀の比重で換算するには、当然ながらいちいちそれらを秤にかけなくてはならないという不便さが伴っていた。
 貨幣はそれらの不便を一気に解消する、夢のような『約束手形』だったのである。
 全オリエントを統一したアケメネス朝ペルシアの最盛期の王様であるダレイオス1世は、商業の普及のため、という名目の中央集権体制整備の一環として貨幣を発行する。
 なぜ“という名目”なのか?
 貨幣というモノは結局のところ『約束手形』なのである。そして誰が価値を『約束』してくれるかというと、『国・政府』であるからして、貨幣が普及する=みんなが政府を支持・信用する=政府の権力が普及する、という方程式なのだ。ダレイオス1世は、貨幣に移行することによって、自分の権力をバンバン普及していた、と実はこういう図式になっているのであった。
 ダレイオス1世はアッシリアの失敗に学んで“東洋的専制政治”の見事な政治基盤を作った偉人だから、やはり「貨幣が普及することによる権力の浸透効果」は理解していたと思う。ついでに自分の顔でも貨幣に刻んどけば、“顔を売る”ことにもつながって、あちこち宣伝できて万々歳といったところだろうか。
 当然、貨幣が『約束手形』である現実は、現代でも変わってはいない。ただし現在では「政府が貨幣の価値をお約束する」というよりも「貨幣が政府をなんとか支えている」という状況になりつつあるような気がするのだけど。
 どこの国とはいわないけど、ワタシの住んでいる国だが。
 高校に入学して間もないころ、『現代社会』という科目を初めて受けたときのコトだったと思う。担当の先生が現代政治への不満を切々と述べ、春の陽気も手伝って生徒達がホドヨク眠くなった頃、彼は突然問いかけた。「この中で、日本政府を信用しない、支持しないという人は手を挙げて」
 彼は、手を挙げた生徒がいたら、すかさず持ち金全てを取り上げて「これは政府の信用の元でしか通用しない『約束手形』だから、政府を信用しない人間には用のないモノだ」と述べて、みんなにオカネというものの認識を改めさせようという作戦だったらしい。
 ダレイオスのおよそ300年後、中国の秦王朝では始皇帝が中国各地でバラバラだった貨幣を半両銭に統一することで、商業の活性化を図っている。当然ながら、貨幣を統一することによって「キミタチはみんな『秦』という王朝に属する国民になったのよ」と『国民たち』に教え込んでいたのだけれど。
 先の授業では、先生の話でホドヨク眠くなっていたワタシのクラスの生徒は、質問の意味そのものが理解できず、誰一人としてその作戦にひっかからなかったのだった。