最近めっきり聞かなくなった言葉のヒトツに「スパルタ教育」というヤツがある。そういえば「教育ママゴン」という言葉も聞かなくなったけど、今回はスパルタのハナシだ。
スパルタ式という言葉を辞書で引いてみると、『(昔スパルタで行われた)きびしい鍛錬を主とする教育法』とされている[三省堂:新明解国語辞典第三版]。
しかしながら、意外なことに、実際「昔スパルタで行われていた」とされる方式は、現在『教育』とわれてイメージする『勉強』1とは、甚だしく離れているのだ。
スパルタはアテネとは成立からして違っており、少数のドーリア人が圧倒的多数の先住民を征服して建てたポリスである。完全市民とされる、いわゆる“スパルタ人”は、人口の10分の1にも満たなかったのだ。そのため、彼らは「スパルタ人に逆らったらとんでもないことになる」という“抑止力”を必要とした。
その抑止力は、タイヘン直接的な方法で示された。
スパルタ人は、男も女も関係なく全ての人間が凄まじく“強い”のである。彼らは30歳になるまで共同生活を送り、競争・円盤投げ・槍投げ・耐久訓練といった身体的訓練に明け暮れ、全員がたまらなくスポーツマンな連中だったのである。
見ただけで逆らう気持ちをなくさせる程の訓練であるから、そりゃもう、厳しい“訓練”だ。当然ながら、机に向かっている時間なんてあるわけがない。
知識的な“教育”は「最低限の読み書き」に限られており、知識で言ったら圧倒的多数の方が圧倒的に上だともいえるのだ。スパルタは筋肉オバケ製造工場だったのである。
しかし、スパルタ人は身体的鍛錬によって、知識なんてものを押さえ込んだ。いや、逆に言うと「知識を押さえ込むことが可能なまでの合理的肉体鍛錬を行った」のである。
そう考えると、「スパルタ教育」という言葉は、なんとも重みのある言葉になるんじゃないだろうか。
知識だろうと肉体だろうと芸術的センスだろうと、とにかく他人に有無を言わせないレベルに向かって凶悪なほどに合理的な訓練を徹底的に行う、それが正しい「スパルタ教育」なんだから。
スパルタ人の“訓練”は、生まれた瞬間から始まる。生まれたとき「虚弱」と思われた新生児は、いきなり山に捨てられる。たまらんハナシだが、この最初の関門を突破したとしても、彼らはわずか7歳で「スパルタ国有」となり、家庭を離れて共同生活に入るのだ。待っているのは、ひたすら合理的な肉体“訓練”である。
兵役が解除されるのはなんと60歳。定年があるのだ。現在の寿命に換算したら定年は100歳くらいなんじゃないだろうか。定年まで勤め上げた人間がどのくらいいたのか、興味のあるところだ。
ある意味、スパルタでは完全市民(=スパルタ人)になるということは、血反吐を吐くほど厳しい、そして本当に血反吐を吐いても終わらないであろうという訓練の中に自分とその子供を投げ込むことになるわけである。
ワタシだったら、「ワタシ、ペリオイコイ(参政権のない周辺居住者)でいいです、へへへ」と逃げ出しちゃうだろうな。

  1. 大辞林によれば、教育とは「他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用する すべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。」とのことなので、スパルタ的訓練も「教育」っ ちゃー「教育」なんだけど、現在「教育」と聞いて筋肉オバケをイメージする人はあるまい。 []