神なのか、神に一番近い人間なのか判らないが、イエスさんは、とにかく当時“常識”と思われていたことに異を唱えることで、世界を変えた人である。
イエスが異を唱えた“常識”は何だったのかというと、「パリサイ派」とか「サドカイ派」とか呼ばれる、ユダヤ教の仕組みの中で力をふるっていた人達とその考え方だった。
普通パリサイ派は『戒律重視』、サドカイ派は『祭式重視』と呼ばれ、どちらも信仰を深める為に“〜してはいけない、〜しなさい”という戒律を厳しく定めて、それに従って生活することを自らに強いたり、決められた祭式を細かく執り行うことで神に近づこうとするものである。
イエスはこれを“ダラク”と言ったのだ。
ユダヤ教が戒律にうるさいのは成立当初からだ、とも言える。
映画でも有名な『十戒』というのは、要するに『十個の遵守すべき戒律』のことであって、神からのコトバとして「汝は〜してはいけない」というオシエが岩に刻まれているもんである。ちなみにこのときの岩を収めた箱を『聖櫃(アーク)』と言い、インディ・ジョーンズが一生懸命探したりした。
しかし、その戒律重視が次第に拍車をかけて、生活のホントに細々した全てのことに戒律を設けていくうちに、それがユダヤ教徒としての“常識”になって、パリサイ派が力を持ってきた。細か〜い戒律に従って生活するのだから、その不便さたるやたまらんものである。
そんな不便な生活をしているのに、ナニが“ダラク”だったのか?
イエスが言いたかったのは、要するに「アンタタチ、気持ちがなくなってるのよ」ということだった。不自由な戒律に沿って生活するだけで満足して、というかそれでイッパイになっちゃって、肝心の“信仰心”がどこかにいっちゃってるのだ、と。大事なのは外ッ面の戒律とかじゃなくて、神を信じて祈る心の方なのに、パリサイ派の連中はそれが全く逆転しちゃってるじゃないか!…っちゅーわけだね。
そうなると、これは現代でも一緒である。
今はちょっと困ったことがあるとすぐ“規則”というものを作ってそれを規制することを考えてる。そんでもって、規則が成立しちゃうと、今度は『規則だから』と言って規則を守り始める。最初の理由がどこかにすっとんじゃうのだ。
例えば、とりあえず何かの必要があって、組織を作る。その時に『毎月一日には定例会議を設ける』とか決めちゃう。すると、会議のために会議する内容を探したりして形骸化した無駄な時間が過ぎ、結局「そんじゃま、この辺にして。今夜はおいしいフグの予約がしてありますから、まままま、そのままそのまま」なんて流れていってしまったり。
もちろん、規則がない方がいいなんて言う気はない。
だけど細かすぎる規則は、結局“戒律主義”を生むだけなんじゃないかとは思う。もしそういう事態になったとき、ワタシたちに『イエス』は現れてくれるだろうか?
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