“輪廻転生”。SFの題材になったり宗教の元ネタになったり、あるいは恋人達の甘い囁きの種になったり、誰しもが必ず一度は「生まれ変わったらどうなるかしら」と考えずにはいられない、人生のスパイス的なお言葉。
 ところが、宗教的に“輪廻転生”をつきつめると、これはハナハダ歴史家には迷惑なものなのだ、ということを皆様はご存知だろうか?
 世界史を学んだことのある方は、『古代インドの歴史』というものに、何か奇異の念を感じたことがあるんじゃないだろうか?
 少なくとも、ワタシは感じた。なんか、どの国がどの宗教を保護したとか、どの王様はどの宗教をどう保護したとか、ひとつステップを刻む度、必ず宗教がからんでくるからだ。
 実は、これこそが“輪廻転生”の弊害なのである。どうしてもインドの歴史を記述しようとすると、宗教の歴史になってしまう。理由は単純。古代インドには『歴史書』というものが(ほとんど)ないからなのである。
 そもそも“輪廻転生”とは、「今度生まれ変わっても一緒になろうね、うふん」なんて約束をする甘いモノではない。「人生は一時的なものにすぎないのであって、苦しみの連続であるから、この“苦痛の輪”から抜け出すためにも精神的に『解脱』しなければならない」と内面の鍛錬を諭す、深い宗教的思想なのである。
 この思想が骨の髄までしみこんでいたインド人は、当然現在の人生を「仮宿」としか思っていない。解脱しない限りはまた生まれ変わって、苦しむ人生が待っているからだ。
 ところが、いわゆる一般の『歴史書』というのは、「仮宿」である「現在の人生」を記録するモノである。インド人は思う。「そんなもん記録してどうするんだ。そんな暇があったら、解脱のために思考せい」と。
 その結果、古代インドには『宗教文献』はやたらと多いが、歴史や地理を記録した書物は殆どない、という状況になってしまった。すると『宗教文献』の中から歴史を拾い出すしかなく、「どの王様がどれだけ宗教のために考えた」とかいう事実が中心になってしまうのだ。
 この“輪廻転生”思想の弊害は、別の処にも出ている。
 どこかというと、インドの『歴史』そのものである。
 インドは紀元前2500年から栄えたインダス文明という古代文明発祥の地でありながら、統一王朝がなかなか出現しない。なぜか。
 要するに古代インドのヒトビトは、ほとんど「民族」としての意識を持っていなかったのである。インド自体が閉鎖的半島で、外敵にさらされることが少なかったという特徴を差し引いても、インド人には「インド人!」という自覚が少なすぎた。「現在インドに生きているのも“輪廻転生”の中の、ホンの一瞬の出来事」と思っている人達なんだから、それも仕方ないけど。
 そんな“仮宿人生”って、見方を変えれば軽やかな気もする。軽やかな気はするけど、やっぱりワタシは“本番人生”でいこうかな、って気持ちでいっぱいなのである。