最近めっきり歌も売れなくなって、大方の予想通り「過去のヒト」になり、「売れない芸人」として夜中の番組にたまにゲスト出演しては失笑すらも買わない実力のなさを露呈している猿岩石1だけど、ワタシは彼らのヒッチハイクの旅は結構好きだった。
彼らはユーラシア大陸横断の途中、インドでひょんなことからアタマを丸めて出家して、しばらくの間坊さん生活をしていたりしたのだが、そんな猿岩石の出家姿に、日本人として違和感を覚えたヒトはいないだろうか?
なぜなら、出家して修行する彼らが着ている服が、墨染めの衣ではなく黄色の法衣だったからである。
日本人のイメージでは、坊さんの着るものと言ったらやっぱり墨染めの衣であろう。比叡山の山奥はやっぱり水墨画の世界でなくてはいけなくて、ドハデな黄色ではいかんような気がするのだ。
そもそも日本に伝わってきた仏教は、『大乗仏教』と呼ばれる(比較的)新しい宗派であり、この僧たちは墨染めの衣を着る。一方インドに残っているのは『上座部仏教』というより古い形の仏教であり、かれらが身につけるのが目に眩しい黄色の法衣なのである。
この二つは、以前は「大乗仏教と小乗仏教」と呼ばれていた。そのように覚えているヒトも多いんじゃないだろうか。しかし、「小乗仏教」という呼び方は、『大乗仏教』が元来の仏教を侮蔑して呼んだいわば差別用語であると次第に批判され、現在では『上座部仏教』と呼ばれるようになっているのだ。
では、この二つは実際どう違うのか?
もともと『仏教』という名前には、実は「ブッダの教え」という意味と共に「ブッダになるための教え」という意味がある。そんでもって「ブッダ」とは、実は“真理を悟った者”という意味だ。
つまり仏教はあくまでも「ある人が修行し、思考し、そして精神的に“悟り”に達して解脱するための宗教」として出発したのである。
当然、そのような修行をするのは、“悟り”に達したいと志す出家者(=アラカン)自身である。当然、それによって“悟り”を拓いたとしても、解脱し救われるのは修行をしたアラカンのみだ。
これが、誕生したままの姿の仏教、そして猿岩石が修行した『上座部仏教』の考え方である。
ところがそのうち、『菩薩信仰』という考え方が現れる。菩薩とは“すべてのヒトを平等に救済したいと思う慈悲の心”のことである。
そんなことから、仏教の中にも「修行したアラカンのみが救われるというのはヘンだ!僧が修行を積むことによって、更に万人を救済できる方法があるはずだ。だってこの世は、不生不滅で不一不異なんだもん!2」という意見が出てきた。
それが『大乗仏教』である。
大乗仏教派は、「上座部仏教はアラカン自身しか救えない。我らが万民を救いの船に乗せている時、彼らは選ばれたアラカン数人しか船に乗せない。ちょっとしか乗れない=『小乗』仏教だ」と今までの仏教を侮蔑したわけなのである。
日本人は、大抵『大乗仏教』しか知らないわけだから、死んだ人がみんな戒名をもらって“仏様”になっても「そういうもんだ」と思っている。ワタシもそんなもんかと思っていたけど、困ったときに「南無阿弥陀仏」も言わないような連中でも、本当に救われるのかなと、最近思う。
もしかしたら、さすがに『大乗仏教』にも限界があって、ワタシみたいな全くの不信心者は救いの船には乗せてくれないかもしれない。
としたら、猿岩石はどうなんだろう?彼らは上座部仏教の“小さな船”に乗れるのかな?それとも、やっぱり“大きな船”に乗りこぼしちゃったりするのかな?

  1. そういえば、一時「手裏剣トリオ」という名前に変更になっていたが、今はどうなんだろうか?そもそも若い世代の人に、この話題は通じるんだろうか?「セブン・イヤーズ・イン・チベット」で説明した方がよかった?ていうか、それも古いのか? []
  2. 理解して書いているわけではありません。これは「インド思想家の中で最も論理的で最も“深い”」と言われる竜樹の論理の一部 …らしい。 []