ワタシは高校生になるまで、というか正確には高校の世界史で“諸子百家”と呼ばれる人達のことを習うまで、『儒教』のことを、『仏教』や『道教』などのいわゆる“宗教”の一種だと信じていた。もしかしたら同じように信じている方もいるんじゃないだろうか。
 そういう方のために説明すると、『儒教』は宗教ではない。これは“政治道徳”を示している“儒家の教え”のことであり、その具体的な内容が『儒学』と呼ばれて寺子屋なんかで教えられたりしてきた。
 つまり、儒教はまごうかたなき“学問”なのである。
 儒家とは、春秋戦国時代に活躍した思想家集団のうち、孔子を祖とする一派である。
 この時代の思想家達は有力諸侯に対して「こうすればこの国は他の国より強くなりまっせ」という内容をアドバイスして、国に雇い入れてもらうのが、いわば“出世”であった。
 したがって、儒家もある“政治道徳”を示して王の心を得た。
 儒家の示した政治道徳は、ヒトコトで言うと『徳治主義』というものだ。ナナコトくらいで言うと、『支配者が倫理・道徳をもって治めれば世は治まる』という、なんだかいいような悪いようなカンジの内容である。
 じゃあ“宗教”っていうのは何なのだろうか?
 念のために辞書を引いてみたら、『常に頼れる絶対者を求める根元的・精神的な営み。また、その意義を必要と説く教え』とか『神仏を信仰して心の安らぎを体得する教え』であると書かれていた。
 「神様の教え」くらいのことが書いてあるかと思ったけど、さすがに日本だ。慎重な記述である。
 とにかく“宗教”とは最終的に“その人当人の心”などを安定に導くための教え、と受け取ればいいようである。
 同じ辞書を引いてみると、儒教は『中国の伝統的な政治・道徳の教え』とか『孔子を祖とする仁義・道徳の教え』とされている。ってことは、キーワードは“道徳”のようだ。
 つまり、宗教が“当人=ヒトリの問題”であるのに対して、儒教は“社会生活の秩序のための、一人一人の心がけ”みたいなもんが問題になっているのだ。
 しかしそのココロガケについては、儒家の中にも『性善説』と『性悪説』という二つの立場があったようだ。
 性善説とは、支配者が徳のある政治を行った場合、人民の側にも徳を理解する心がもともと備わっている、と前提するモノである。これを唱えたのは、お母さんが教育熱心で有名な孟子。わけのワカランおかんに3回も引っ越しさせられたにしては、案外ヒトのいいオトナに育ったようだ。
 これに対して性悪説とは、人民は支配者の徳を理解できないものであると前提する。そういう困った人民を正しく治めるために必要なのが、『礼』という社会秩序のルールである、と性悪説派は主張する。
 この『礼』は実は宗教儀礼から発すると言われ、そういう意味では儒教は宗教をとりこんで更に“みんなの道徳”に発展させたといえなくもないかもしれない。
 もちろんこういった内容はあくまでも儒学のほんの入口であって、実際には、中国の名だたる文化人が落第した“科挙”の試験問題にもなっちゃうくらいの奥深さのある学問なのである。
 それでも「支配者が倫理・道徳を持って国を治めれば世は治まる」という基本思想は現代でも通用しそうだ。
 …っていうか、イッパツ孔子様に出てきていただいて、倫理とか道徳とかそういった社会秩序を守るためのココロガケを、“乱れている国”の支配者どもに“教え”てやっていただきたい、とこう思う次第である。