前漢と後漢にはさまれた、たった15年の王朝は「シン?秦?それとも清?」なんて可哀想な扱われ方をする「新」王朝である。
 建国者王莽は、前漢の外戚だし、たった15年で滅んでいることから、結構「アホウ」だと思われているようである。事実ワタシは「時代錯誤にも周の古い政治を復活させようとした時代錯誤野郎」だと思いこんでいた。
 ところが、意外にもこの「王莽」という人物、最近では評価が一転して「不幸にも理解されなかった卓越した政治観念の持ち主」と考えるむきがあるようなのである。
 前漢後半の宦官・外戚の権力争いの末、王莽がいきなり「新王朝」を打ち立ててしまうモノだから、ワタシはてっきり彼が「力ずく」で王朝を倒したモノかと思っていた。しかし実際には彼は、中国史上初めて「禅譲」という平和手段で皇帝位を譲ってもらっているのだ。これは意外。
 実は彼は優れた「儒家」でもあった。
 そのため儒家の「天下は有徳の人間に引き継がれるものであり、家系によって世襲されるだけのものではない」という政治思想から、皇帝位は有徳の君主(この場合自分)に「譲られるべきだ」と迫って、皇帝のシルシを漢王朝最後の皇后から受け取るのだ。
 初期の儒学は、周の頃に行われていた“宗教儀礼から発する社会秩序のきまりごと=周礼(しゅうらい)”を理想としている。つまり、王莽が復活させた「周の古い政治」とは、周礼に基づく儒教的政治なのだった。
 前漢の末期、中国は宦官・外戚の権力争いで宮廷が混乱していただけでなく、実は豪族の大土地所有によって小農民が没落し、その上人口増加が激化したため、殆ど『飽和状態』に達していた。
 これを解決するため、王莽はどうしても「革新的な」政治を執らざるをえず、貨幣改革,土地制度改革,専売による物価安定策など矢継ぎ早な改革を行った。それは小農民を救う、優れた社会政策だったのだが、あまりにも「急ぎすぎ」たのである。
 先見の明がありすぎる彼の政策に、時代にしがみつく人々はついていけず、すべての層がこれに反発、結局、ほとんどの政策が失敗に終わってしまった。
 いくら優れた政治家でも、実際に政策が失敗したのでは仕方がない。この「早すぎた儒学者」は、23年9月、宮殿で惨殺されてしまう。
 その後成立した後漢の創始者光武帝は、名君と評価も高く、まさしく「王道国家」を実践した有徳の君主である。
 しかしながら、彼の政策の多くは「王莽もやろうと思ったんだけど急ぎすぎて巧くいかなかった」ことを、うるさい豪族達のご機嫌をとりながら緩やかに進めたものであり、その意味では王莽と光武帝の間の政治的な隔たりはそれほど大きなものではない。
 それでも、光武帝は“賢帝”であり、王莽は“誰ソレ?”なのだ。
 王莽に欠けていて、光武帝に備わっていたものとはなんだろうか?
 ワタシは実は「気配り」なんじゃないかと、思う。
 光武帝は、現在の利益にしがみつく豪族や商人達に「ちょっとした気配り」をしつつ、新しい政策をそっと差し出した。けれども王莽はそれをしないで、彼らの利益を無条件で取り上げようとしたのだ。貧しい人たちのために。
 王莽は、社会を良くするために一生懸命やったけれども、「人のココロ」という、大義名分だけでは動かない暗いドロドロした存在を忘れてしまったのじゃないだろうか。社会を良くするためだったら、ヒトはみんな無条件に協力する…そんな風に信じてしまう、ある意味で純粋な「いい人」だったのかもしれない。
 だとしたら、王莽と光武帝の評価は、「いい人」がイコール「政治世界の偉人」ではないことを証明する歴史のヒトツなのかもしれないな、と思ったりするのである。