唐の時代を語るとき、『女』というものを語らないわけにはいかない。そして、唐の『女』を語るとき、それは『女が絡むと政治が乱れる』という、非常にヤな感じのイメージでのお話である。
 なにしろ、初唐の押しも押されぬ『世界帝国』を築き上げた直後に登場した二人の女が、唐の政治をメッチャクチャにしてしまう。いわゆる『武韋の禍』というヤツだ。
 『武』である則天武后は、3代目高宗の奥さんで、高宗死後、自分の子供2人を相次いで廃位し、終いにゃ自ら聖神皇帝と称して、ご丁寧に国号を『周』と改めることまでしている(武周革命:690)。
 則天武后の子供の一人である中宗は、705年になんとか復位するんだけど、なんと可哀想なことに今度は自分の奥さんに毒殺されてしまうのだ。その、おっかな〜い奥さんが『韋』の韋后である。
 こりゃもう再び則天武后時代の再現か、とみんながビクビク伺っているのを見ていた中宗の甥が、韋后を殺害して712年に自分が即位、有名な玄宗になる、って寸法である。
 しかしながらこの『武韋の禍』と呼ばれる時代、女による災いの時代と言うことは簡単であるが、果たしてそれだけだろうか?…ってことが最近言われているようである。
 つまり、彼女たちのやり方は横暴であり、そして政治に対して無知である部分からくるあまりにも非常識なやり方で、確かに政治は乱れたように見える。しかしながら新しい能力を取り立てようとする活力には溢れていて、新勢力の台頭する、新しい時代への社会変換時期であった、という評価もあるのだ。
 実際この時代は、初唐の世界帝国を築き上げていた中心制度である律令・均田制が崩れ始める時期でもあり、新興地主や商人など、今後の中国の歴史をになっていく勢力が成長し始めている時代でもあったのである。
 特に則天武后などは、中国史上唯一「皇帝」を名乗った女性(あの西太后さえも皇帝とは名乗っていない)であることから、悪い面ばかり強調されがちであるけど、学芸を保護して、のちの玄宗時代の『盛唐』時代への足がかりを作ったという面だって持っているのだ。
 日本史を得意な方なら、丁度この時代、日本でも女帝が誕生していたことを思い出すかもしれない。鵜野讃良(うののさらら)皇女、つまり持統天皇は、則天武后と同時代の人なのだ。
 日本史では持統天皇を悪く言う人はあんまりいないみたいだけど、意外にも二人の結末は、共に「死んじゃったらやっぱり皇后として旦那のお墓に一緒に入れられちゃう」という共通のものであった。
 こりゃもう、女のせいで政治がどうこうというより、結局「女のくせに」という考え方がこの時代の人にはあったんだ、ってことなんだろうなあ。
 唐の時代に災いをもたらしたもう一人の女は『楊貴妃』であろう。
 最もこれは、楊貴妃が悪いのか入れ込んだ男が悪いのか、その辺は意見の分かれるところと思う。ただ、息子の嫁を横取りするために一度出家させて、その後自分の後宮に入れてしまう男が、果たして「善いヤツ」なのかどうか…。そんな男の振るまいが元で国が乱れたと責任を押しつけられても、女としても困ったモンだと言うしかない、ってところじゃなかろうかな。