ワタシたち日本人が世界史(特に西欧史)を学ぶ上で、理解しにくいことの一つに『教皇』という存在があるのではないかと思う。まがりなりにも政教が分離されている現在、宗教的に頂点にある人が、国そのものを動かしてしまう…なんて、某宗教団体の教祖の戯言、くらいしにか思えない人も多いんじゃないだろうか。
大体、元はといえばなぜ教皇がそれほどの力を持つに至ったのであろうか?
多分、その理解の鍵になるのが「破門」という行為である。
一昔前のスポーツ根性モノ漫画の中では、厳しい道場に入門した主人公がついていけなくて破門になり、一念発起して達人になる…なんてエピソードがあったりしたものだ。
一定年齢以上の方であれば、破門と聞くと、そういう「道場主から下される絶縁状」といったイメージが浮かぶのじゃないだろうか。
しかしながら、この「破門」、中世西欧で言い渡されようものならば、地位はおろか、財産も家族も、人生の全てを失ってしまいかねない恐ろしいものだったのである。
そもそも破門とはなんなんだろうか?
手元の国語辞典によれば、破門には2つの意味があって、一つは上記の“師が師弟関係を断ち出入りを禁じること”なのであるが、もう一つは“その宗教の信徒であることをやめさせること”なのだ。
「門」という漢字のイメージで、その教会から追い出されるだけ、なんて思ったら大間違い。要するに「あんたはもうキリスト教徒じゃない=あんたもう神様に祝福された人間じゃないよ」ということなのである。
これは中世西欧的には人間としての存在を否定されたのも同じだ。
最下層であえいでいた人間なら「今更なんだい。けっ」で済むかもしれないが、ある程度の地位のある人にはこれは大変なことである。もう少し時代が進めば、魔女裁判にかけられる恰好の口実になってしまうくらいだ。
特に国王ともなれば『国教』であるハズのカトリックから、自分が外されてしまうのだ。虎視眈々と国王の座を狙っている周りの諸侯がそんなチャンスを見逃すわけもなく、「だって国王は破門されたじゃん。そういうのは国王にふさわしくないよ」なんて言い出すに決まっている。
そんなことになる前に、なんとしでも破門を解いてもらわなくちゃならない。その為には教皇に頭を下げることも致し方がない…。
そうして聖界俗界の権力が逆転してしまったのだ。
だけど、よくよく考えてみれば、キリスト教ってのは、最下層であえいでいた人たちを救うための宗教だったはずだ。そんな人たちは破門されても「けっ」で済むのに、いつしか最上層の人たちがキリスト教という存在そのものに縛られてあえいでいる。
そんな状況は、なかなか救われない最下層の人たちにも、ちょっとした心のゆとりを生んでいたんじゃないかな、なんて思ったりもするのである。
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>「今更なんだい。けっ」
実は中世人の考え方ってのは、全然違うようなのです。
もとより教会は地上における「神の代理人」を頂点とする組織です。では、彼らはなんのために存在するか?・・・実は中世では「魂の救済」が大変な問題でした。魂が救済されないといつまでも煉獄で火あぶりにされるとか、神の秩序にはずれたものであるとされて、とてもつもない過酷な来世があると思われていたのです。
で、教会はこの「魂の救済
」の権限をもつ地上(現世)の聖職者の組織でした。人々はこの点ゆえに教会を重んじていたのです。
そして、このことは日々厳しい生活におわれる人々にとってこそ魅力的な教義だったのです。むしろ王侯諸侯は現世でいくらでも「救われて」いますし、その手段もあります。教会を自分の領地に建てて、聖職者を勝手に任命して、自分の家門、一族の繁栄を祈らせるのも思いのままでした。
でも、一般民衆には、そんな力もありません。
かつて教会は「地上において人は、神の御手に委ねられている」として、人間個人の「現世」での努力には限界があり、その限りない解放の道として教会があると教えていました。ところがピューリタリズムの登場で、それは強い批判を受けます。彼らは「神は人を作られ、その世界を我々に委ねられた。人は個人の努力でなんでもできる!」と現世を積極的に肯定する生き方を提唱したのです。
結局、カトリックでは「救われない」と感じた人々は、ぞくぞくと自らを認めてくれた現世の、「この地上に千年王国を築くのだ(つまり魂の救済にではなく)」という異端者達の群れに身を投ずることになります。