中世という名前は「何も生まない中間の時代」と、後世からバカにされてつけられたものである…ということを以前、書いた。しかしながら、重要な論争が11世紀に行われている。
のちに科学へと発展していく“普遍論争”である。
中世ヨーロッパの文化は、考え方も美術も何もかもが「キリスト教中心」であった。中世では学問といえば「神学」。神学以外の学問は「カス」みたいなイメージで満ちていた時代だったのだ。
そんな中世神学の中で“普遍論争”という論争が起きた。
普遍論争とは、ものすご〜く単純化すると「神が人を作ったのか、人が神を作ったのか」というケンカだ。
一方は「まず神(=普遍)ありき。そんでもって人間が作られたのだ。だから、人間がいなくても神はいる」という『実在論』。
そしてもう一方が、現在ワタシたちが「科学」と呼んでいるモノへの出発点である。「人が神を作る」。この意味、判るだろうか?
『名目論(或いは唯名論)』と名付けられたこの人達の主張は、要するに「人間がいて、人間が『信じたい』と思ったから、神を作り出したのだ」ということ。ただ、ストレートにそんなことを言うと、異端の汚名と共に火刑にされておしまいなので、実にカッコイイ言葉を使う。「理性が信仰を生む」というのだ。
さあ、これがどちらでしょう!…というのだ。
これは現在考えればなんてことはない不毛な争いだけど、当時は学問すべてが『聖書』とキリスト教を中心に回っていたのだ。現在だって「聖書と違っているから進化論は間違っている」と本気で信じている人間がいる1んだから当時は言うまでもない。
結局この論争は、名目論者のウィリアム・オッカムが「宗教と学問は違う。宗教上の信仰と、学問的心理を分離せよ!」と唱えて、近代合理主義思想へとようやく歩んでいく訳である。彼が言い出さなかったら、まだ地球は4頭の巨大な象が支えてたかもしれない。
と、こんな流れの普遍論争、最近何かに似ているような気がして考えていたのだが、ようやく気がついた。『不確定性理論』というヤツに似ているのだ。
不確定性理論とは、量子論のモノだが、これもものすご〜く単純化すると「素粒子があるかどうかを確認しようとすると、その『確認するための作業』によって、測定結果が変わってしまうので、結局は確認できない」という、なんだかじれったいような理論だ。
素粒子っちゅーくらいだから、実際に目で見ることは出来ない。仕方ないので、光りを当てたり、電圧をかけたり、よくわかんないけどとにかく何かの作業を通して観察するんだけど、その「何かの作業」自体が、極小の素粒子には致命的な力となって働くため、結局、そこに「あった」ものが、観測の結果、どっかにすっとんでっちゃったり、「眠っていた」ものが、観測したら突然尻に火がついたようにはしゃぎだしたりする、そんな感じのことである。
現在「理性」を中心に考える人たちは、『神』という存在は、人間が信じることによって生み出されたものであり、実在するものではない…という結論に落ち着いてしまう。それを覆すために、実在論者たちは、奇跡とか予言とかを持ち出しているような感じだ。
でも、不確定性理論を延長して考えるなら、ワタシたちが神を「信じる」ことで、すでに『神という存在』に決定的な影響を与えちゃっている、と主張することもできる。
神は人間がいなくても実在したかもしれないが、それは確かめようとした瞬間に確定できなくなる。また、実在しなかったことを確かめようとしても、やっぱりそれを観測することはできなくなるのだ。
だからこそ、「存在の痕跡」や「存在しなかった可能性」を示すことでしか、論争はできない。だから、信じたい人は『ワタシが信じる前から神は存在した』と思えばいいし、そうでない人は信じなければよい。
それを、それぞれ自分の主張を相手に押しつけようとするから、ややこしいことになるのだ。それは信仰以外でもいっしょ。自分と相手では、観測時間も観測方法も、そして観測者も「違う」のだから、観測結果が「違う」のも当たり前だ、それを認めてから話し始めれば、いろんなことが現在とは「違って」くるんじゃないかな、と思ったりするワタシである。

  1. 進化論が正しい、といっているわけではなく「聖書に書いてあることと違うから進化論は間違っている」という否定理論が昔っぽい、といっているだけなので、含むところはありまセン []