宗教が成立してしばらくすると、必ずって言っていいほど「分派」というものが生まれてくる。
分派は、小さな団体がとび出すように生まれることもあれば、宗教そのものを2分するような大きな形での分裂になることもあるのだが、どちらにせよ、分派した時点で、どちらも創始者の意図した宗教からは逸脱してしまっているような気がする。
特にイスラム教の場合、ムハンマドの目的は明らかに「アラブ人を統一すること」であって、極論すれば統一するための手段として神の言葉を伝えたはずなのである。それが、思想的なモンダイで分裂してしまっちゃー本末転倒であろう。
分裂は多分、創始者の死後、創始者の持っていた「カリスマ性」を人々が忘れ始めた頃に起こると思われる。あるいは、創始者のカリスマ性に直に触れていないような新参者なんかが分裂の種になることもあるかもしれない。
ひとつの宗教の団体を率いるためにはそれなりのカリスマが必要であり、創始者ほどの巨大なカリスマ性を持たない「プチカリスマ」なんかが何人か登場して、フト気づくとそれぞれのプチカリスマに支持するいくつかの団体に分裂してしまう…ってカンジなんじゃないだろうか。
なんて書いていたら、なんか巨大美容院の抗争を書いているような気がしてきたので、改めて「カリスマ」を辞書で引いてみた。「預言者・英雄などにみられる超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力。」だそうだから、間違いないようだ。
プチカリスマっちゅーと「ほんのちょっと日常を逸脱した資質・能力」って感じか。ちょっとアブナイ人みたいだが。
ともかく歴史の話である。
宗教に限らず、こういった図式は歴史の中では繰り返されている。カリスマ性に起因するかどうかは判らないけど、ある一人の傑出した能力の人間が見る見る巨大王国を打ち立てて、死後あっという間に国が解体していくこともある。
創始者(あるいは拡大者)がどんなに優れた制度を残そうとも、びっくりしちゃうぐらい見事に崩壊してしまうのである。
となると、人間として自然な形はむしろ「統一されていない」形なのだろうなぁと思う。プチカリスマに集う一般人、というカタマリの方が、普遍の状態であって、そこへカリスマが登場すると、うわーっと高エネルギー状態になって巨大、かつ異様なカタマリになってしまうのである。
宗教は、この異様なカタマリ状態を、思想という形で個人個人に浸透させ、普遍状態に戻ってもカタマリ意識を維持させようとしているものではなかろうか。
そう考えると、その「最初のカリスマ」の持つ「非日常」部分が、なるべく小さくないと、日常にお持ち帰りした後のプチカリスマですらない人々の意識まで「非日常」になってしまって、日常に軋轢が起こってしまうのかもしれない。
そういう意味では、ムハンマドは「アラブ人を統一する」という、現実的な部分に第一歩があるので、人格的には実に「日常的」であると言える。
イスラム教がこの後爆発的に拡大し、あっさりと政治と結びついたりしていってしまうのは、こういう日常性からくるのかもしれない…と思うのである。
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以前読んだ本に
「ヒトという種が同じ身内の
仲間として把握できる
最大の人数は150人程度」
というのがありました。
規模が大きくなると逆に
お互いを把握しきれなくなって
身近に把握できる単位に
分割されていっちゃうん
でしょうか(笑)。
なるほど。150人ですね。メモメモ。
『150人以上のニンゲンを束ねたいという野望をお持ちの場合、相応のカリスマ性が必要になります』という但し書きを、どこかにつけるべきでしょうか。
マックス・ウェバーによれば「支配の3類型」というのがある。カリスマ的支配。伝統的支配、合法的支配。政治手法としては、カリスマ、伝統、法治と進化していくわけです。
その素として、個人の資質、慣習、法律の制定という基盤があります。カリスマを語るのならば、ウェバーを読みましょう。
ウェバーを高校の世界史で教えないのはどうしてなんだろう?
確かに高校世界史でウェーバーは扱いません。難しいから。(でも最近はウォーラーステインは扱うようになってるんですよ。)倫理の方では扱っています(どちらも必修科目)。その点、今年度からのセンター試験の科目増は生徒にとっては苦しみ以外の何物でもないでしょうが、科目間の連絡があれば、歴史的な理解がもっと深められるのでしょうね。私も読まなきゃ。