世の中には「現実家」と呼ばれる人たちがおります。「現実的」という言葉は、あまりいいイメージには使われないんだけど、現実家なんて言葉になると更にイメージは悪くなって、殆ど「血も涙もない人非人」と同レベルの使われ方をすることもしばしば。
どうでもいいけど、人非人ってスゴイ言葉だ。「人にあらざる人」なんだよね。辞書を引くとそのまんま「ひとでなし」とか書いてあるし。
それはともかく、現実家、である。
辞書的な解釈では「現実に即している(いて実利にさとい)人」となっている。別に現実に即していることはそれほど悪いことじゃないだろうから、マイナスイメージを持っているのは「実利にさとい」の部分じゃないだろうか。辞書も「カッコ」でくくるあたりで何かを主張したがってるみたいだし。
じゃあ実利って何かっちゅーと「実際の利益、効用」のことだという。それに「さとい」。「敏感だ」とかじゃなく「さとい」という言葉が実にまたイヤらしいイメージを与えるような気がするのだが、とにかく判断が的確で速い、ちゅーことだ。
現実の動向を見極めてそれに基づいて素早く判断しちゃって、しかもその判断が後から凡人にも「的確じゃ」と判ってくる、そういうのを何度も見せられると人は「あの人は現実家だ」と言い始めるのだ。
アッバース朝を建国したアブー=アルアッバースちゅー人は、まさしくその「現実家」である。ウマイヤ朝を倒すために、不満を持っているシーア派イスラム教徒やイラン人を利用して反乱したくせに、その「建国の友」であるはずのシーア派が、少数で国内で嫌われているという現実を見極めた瞬間、彼らを弾圧にかかる。一方の建国の友であるイラン人は、ペルシャの政治制度の遺児として宰相として取り立てる。
ワタシがシーア派だったら、やっぱり彼に対して「なんちゅー人でなしの現実家じゃ!」と悪態をつかずにはいられないだろう。そりゃそうだ。
きっとアブーは(こういう呼び方をするとカワイイが)反乱を起こす際に、いろいろ夢や希望を語ったんだろうと思う。シーア派の首領達を前にして、演説もぶっただろう。建国した暁に、現在虐げられているシーア派が、いかに自由な国を持てるか、きっと語っただろうと思う。そういう「夢」を純粋に信じて闘ったシーア派を、「やっぱお前ら嫌われてるからダメー」と切って捨てる、そりゃ憎まれても仕方ない。
しかし、アブーが(しつこいけどカワイイ名前だが)ここでシーア派を弾圧しなかったり、あるいは優遇したりすればどうなっただろうか?多分国内ではシーア派とスンナ派が抗争し、とても中央集権どころじゃなかっただろう。
なぜならば、信仰は「個人」の問題であり、いくらトップが「お前ら仲良くせえよ」と言ってもココロの中までは変えられないからだ。多分シーア派の夢は「スンナ派と仲良く暮らすこと」ではなく「スンナ派を絶滅すること」であったはずだし、それを見逃せない以上、彼らかスンナ派かどちらかを追い出すしかない。
そしてすでにその判断をする時点でアブーは「個人」ではなく国家というものを背負った「公人」になっていたのだ。
個人の現実、と公人の現実、ちゅーものは、ただでさえ違う。そんでもってアブーは多分「公人の現実」に即して判断できるほどに「現実家」だったのである。
だから彼のことを辞書に書くのならば「実利にさとい人でなし」ではなく「(国の)実利にさとい(個)人でなし」と書くべきなのであろう。
きっと「()」が雄弁に彼の行動を物語ってくれるはずだ。
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「合成の誤謬」(ごうせいのごびゅう)という経済学の用語があります。
ミクロ経済学的に正しいことが、マクロ経済学的に考えると正しくない現象があるんです。ミクロ的には個人が貯蓄をすることは良いことです。ところが、マクロ的には社会全体が貯蓄ばかりで、消費が少ないと不景気になってしまう。政治の世界もそうです。反対派を排除ばかりしていたら、政局は不安定になります。反対派を政権にどのように取り込んでいくのかが政権安定の鍵です。アッバース朝も同じ事ではないでしょうか?