創始者ティムールが生存していた頃のティムール帝国のイキオイっつったらそりゃ、大変なものであった。
とにかく行動力に優れていたかの「西アジアの風雲児」は、あっという間に中央アジアを手に納めると、更に西に行って、成立したてでやっぱり「敵なし!」と言われつつあったオスマン=トルコを滅亡寸前に追い込むほどに完膚無きまでに叩きのめす。さらにはモンゴル軍のフラグでさえも撃退されてしまったマムルーク朝に、シリアから手を引かせる。
これぞ風雲児!これぞティムール!向かうところテキなぁしッ!
てなくらいにイキオイがあったのである。ワタシがティムールだったら、とりあえずハダカの美女を近くに10人ほどはべらして、うはうは言いながらちょっぴり人生を楽しむところであるが、どうやら彼には「懸案事項」が一つあったらしい。
モンゴル人としてのホコリを充分すぎるほど持っていた彼は、東に「モンゴル人の王朝を倒して成立した国がある」ってことが気にくわなかったらしいのだ。
その王朝っつーのは「明」である。
一説によると、中国(明)の使節が突然やってきて、ティムールに対して「中国に属していた地方をアンタは勝手に治めてるねえ。もしそこをそのまま治め続ける気だったら、中国に貢納しなさいヨ。あ、そうそう、今まで7年間の分も忘れんなよ」ってなことを言ってきたので、ティムールがおもむろに「判った。オレ様が持参してやろう」と言って遠征になった、ちゅーことになっている。
これはこれでなかなか面白い話ではあるけど、建文帝のカゲとウワサに怯えて内政にも外征にも忙しい永楽帝が、本当にそんな挑発をするかっちゅーと、かなり疑わしい気がする。きっと、ティムールと永楽帝という、二大巨頭が並び立った時代だったからこそ、後からつけられた逸話であろう。
とにかく、明に戦いを挑んでも全くおかしいと思われなかったほどの、下手をすれば「あ、明ちゃん可哀想」と思われていたかもしれないほどのティムール帝国だが、ティムール死後は政権争いが起こり、いったんは終息したモノの、その後も骨肉相争い、結局ティムール死後100年で倒されてしまう。
ナゼ無敵の騎馬軍団、ティムール軍が敗れたのか?
もちろん政権争いで弱体化していたこともあるが、最たる原因のひとつは「騎馬軍団」というものが時代遅れになっていったことであった。世界は火器を取り入れた兵器戦へと動いていたのに、ティムールというあまりに偉大な先駆者がうち立てた最強の軍団を持っていただけに、彼らは「次へのステップ」を怠っていたのだ。
そして、その「次へのステップ」を見事に踏み出し、ティムール帝国を越えるほどの大帝国をうち立てたのは、皮肉にも、ティムールが滅亡寸前にまで追い込んだオスマン=トルコであった。
完膚無きまでにうち負かされた彼らは、その後も軍団の強化を怠らず、結局はヨーロッパを再び恐怖に突き落とす存在へと成長していったのである。
が、無敵のオスマン軍も、やがて近代兵器への立ち後れから弱体化し、次第にヨーロッパに主役を奪われていくことになる。
ってことは、結局「最強」とか「無敵」とか言う名前を持った瞬間から、その無敵は翳りを帯びるということなのであろうなぁ、と思ったのであった。