唐の末期はいろいろ災難が重なってるんだけど、とりあえず「最後の一撃」みたいなのは黄巣の乱ってことになっている。
 塩の密売人王仙芝に呼応して、ヤクザのサンシタって感じの同業者黄巣が、盗賊あがりのタチの悪い連中を集めてやりたい放題。貴族の荘園なんかは「財」のある格好の標的で、酷く荒らされてしまうわけだ。
 とはいえ、この盗賊たちも元はといえば唐の圧政や飢饉で落ちぶれた農「民」たちだったりするわけで、飢饉で落ちぶれた理由は、貴族たちが荘園にいろいろ囲い込んでお大臣な生活をしていたせいでもあり、ツケがまわってきてたといえばそーなんだけど。
 そんなタチの悪い盗賊あがりの反乱軍を鎮圧するのに一役買い、この時期に一気に権力を手にしたのが、節度使などの「軍」の連中であった。
 節度使ちゅーのは、もともと北方遊牧民の侵入を防ぐために、中央がすぐに駆けつけられないような辺境の地に、行政と兵権とを預けた総督のようなものを置いたのが始まりだ。
 行政と兵権を持っているわけであるから、その管轄下においては、節度使は国王と変わらない絶大な権限を有していたわけだ。
 唐末の『安史の乱』の鎮圧に苦労して、ヒデー目にあった皇帝さまは、思わず節度使を内地にも設置してしまう。内乱があったときにも、すぐに節度使に助けてもらえるからこれで安心だ!わーい。
 そんでもって、節度使の出番がやってきた。
 彼らは黄巣の乱を鎮圧するために見事に働き、働いたついでに権力までもぎとっていった。
 軍と財と民をむしりとった節度使たちが、各地で独立したのが「十国時代」ってヤツだ。
 節度使たちは、貴族どもからどんどん荘園を取り上げていく。そうやって取り上げた土地を売りさばいて、「財」をふくらませるのだ。うわははは、やりたい放題。無礼講じゃ無礼講じゃ。
 …なんてすっかり安心しきった節度使のやり方は、実は自分たちの足元を危うくしていたのである。
 というのも、動乱の時代が終わって「宋」の時代になると、王朝はいきなり「文治主義」になってしまうのだ。
 節度使は兵力も財力も奪われて権力を失っていき、その「欠員」に充てる文官を、科挙制度で選抜したのである。
 悲しいかな、力で成り上がってきた節度使には、科挙試験に合格できるだけのアタマがなかった。
 んじゃあ、合格したのはどんな連中だったのか?
 科挙は頭のデキもさることながら、それだけの試験に合格できるくらいに猛烈に勉強に打ち込まなくてはならない。当然ながら、勉強ばっかりやってても食っていけるだけの「財」がなくてはならないのだ。そのような財をもっているのは、節度使がカネヅルくらいにしか考えていなかった新興地主の形勢戸たちだったであった。
 人間、やっぱり節度をわきまえて立ち回ることは必要なんだなぁ…と思う、節度使たちの三日天下なのであった。