節度使どもが力を競った五代十国時代を勝ち抜いた趙匡胤が打ち立てた国『宋』の肝心要は、力を競い合った節度使どもがもう二度と力を競わないように、彼らから力そのものを奪ってしまうことであった。
 自分自身が節度使として権力を握った経験から軍人に権力を持たせる危険性を熟知している趙匡胤は、すべての権力を「皇帝に直属する文官」に握らせ、武人を抑圧する。いわゆる文治主義である。
 文治主義の第一として、まず節度使から権力を剥奪する。兵力や財力をじりじり削り、どんどん没落していく節度使の穴を、文官で埋めてしまう。削り取った兵力のうち、使えそうなのは皇帝直属の親衛隊=禁軍に引っこ抜いて、残りの使えないのは、その名も「つまらない軍」=廂軍としてまとめてすっ飛ばしてしまう。
 いやはや、ホント、徹底的な武人抑圧だったのである。
 シカシナガラ。
 そんな文官重視のやり方には、ヒトツ問題があった。
 中国は歴史上ず〜っと、北方に現れる遊牧民族と闘争の歴史を繰り広げていたのだ。攻められちゃ攻め入っちゃ、あっちを攻めりゃこっちが攻められ…なんてことをやりつつ領土を保ったりしていたわけ。もともと節度使は、こういう遊牧民族が内地に入ってこないように辺境に置いた強力な軍隊だったわけで、その強力な軍隊の代わりを「つまらない軍」ができるわけがない。
 そんなスッタモンダに気付いてしまったのが契丹族(=遼)である。五代十国時代、後晋が建国の援助を受け、燕雲十六州や大同一帯の農耕地帯を割譲してしまい、じわじわと売り出し中の北方遊牧民族だ。
 攻め入ってくる契丹族。
 宋は考える。
 考えた挙句の答えが、
「まぁまぁ、落ち着きなされ。あ、これ、つまらないものですがお土産なんですよ。ホレ、アレじゃないですか、あんまり攻め入って本土破壊しちゃってもね、アナタたちも旨みがないでしょ。どーですか?ここはひとつ穏便に、アタシのカオ立ててみちゃ」作戦であった。
 ちゅーか、要するに大量の銀や絹やアレやコレやを契丹族に送ることで、攻め入ってこないように説得したわけである。「多額の歳幣を送る」なんて教科書に書いてあるところを見ると、毎年結構なモノを収めたんだろうね。
 まあ、それは宋の財力が見せた「余裕」でもあったわけだけど、宋の方からもヒトツだけ条件があった。
 それは「宋をお兄ちゃんとして敬うこと。アンタ弟ね」という宋兄遼弟の関係を認めることである。
 まあ、儒教の国であるから「どっちが上か」はと〜っても大切だったのかもしれないが、多分、契丹族にとってはど〜でもいいことだったと思われる。
 果たして、1004年 澶淵の盟にて、お約束が結ばれた。
 んでもって、殆どの北方遊牧民族にも、名目上の上下関係はど〜でもよかったと思われる。
 北方民の間に「あそこを1回攻めると、毎年財宝をくれるらしい」という噂になってしまい、ひっきりなしに北方民族から圧迫を受けることになってしまったのだ。
 北方民族の圧迫に対して「防衛費」という名目で、支払う歳幣がゴロゴロ増えていく。文治主義の名目上、官僚費もぞろぞろあがってゆく。
 2匹の金食い虫のおかげで逼迫していく宋の財政。ああ、宋くんど〜なちゃうのぉ?
 当然だけど、放蕩の弟たちは、お兄ちゃんが困っていても、な〜んにも助けてはくれないのであった。