北方遊牧民族にいいようにカモられて困窮する宋、財政窮乏のそのときに皇帝になったのが、弱冠19歳の神宗皇帝であった。若く世直しに燃える神宗が財政難解決のために抜擢したのが、王安石という人物であった。
 王安石は矢継ぎ早に改革を断行し、落ちぶれかけた宋の可能性を引き出したとして、20C以降は『中国の光栄』と呼ばれるほどの存在になった人物である。
 20C以降…?
 そう、実は旧中国では、王安石は光栄どころか『人民の敵』くらいに呼ばれていたらしいのだ。6年間で10を超える改革の嵐は、貧民救済が主な目的であったけど、その成果如何の前に、まず保守的反動が立ちふさがったのである。
 王安石は、月並みながら、『生まれるのが早すぎた天才』であった。
 中国史上1,2を争うといわれるくらいの天才である。彼の明晰な頭脳がはじき出した数々の改革派、頭のイイはずの文官にも理解できなかったのである。ましてや皇帝をや(漢語風に反語を使ってみる)。
 19歳で世直しに燃えていた青年も、15年も権力の波に揉まれれば次第に権力に執着を持つようになっていた、そこへ王安石のわけのわからん改革づくめ、富国策とかいいつつ、なんか貧農をやたら優遇していてチョットムカつくゥ。それってホントに国のためになってんの〜?
 程度には思ったのであろう。次第に皇帝に疎まれるようになった王安石は、15年で辞めさせられてしまうのである。
 そんな天才の後に登用されたのが、司馬光であった。
 彼は、王安石の改革時に協力を要請されたが振り切って田舎へ行き、ひたすら著作に専念していたのである。その結果生み出されたのが『資治通鑑』という大著だったわけだが。
 人格と見識を買われて宰相に登用されたわけだが、とにかく「著作に専念した15年」が問題であった。ほぼ引きこもりの生活であったその15年間に、王安石というヒトが行ったとかいう新法の数々。
 …なんだこりゃ?
 と思ったかどうかは知らないが、ともかく表舞台に復帰した司馬光が採った方策は
「とりあえず、なかったことに」
 なのであった。
 すべてを改革以前へ戻す司馬光の方針を支持した保守派官僚の『旧法党』と、一部の見識者に根強く支持された王安石の『新法党』とが繰り広げる『党争』の中で、混乱を極めた宋は更に弱体化していくのであった。
 そして現在では、王安石は「落ちぶれかけた宋の可能性を引き出した『中国の光栄』」であり、司馬光は「大著『資治通鑑』の著者」という評価なのである。
 いくら頭が良くても、人間、磨かないといけないんだなぁ…としみじみ思う2人の世界なのであった。