1206年、クリルタイでテムジンがハン位をもらってモンゴル帝国が成立したときから、モンゴル民族による恐怖の嵐は吹き荒れ始めるのである。西へ東へ、やってきては征服していくモンゴル民族に、ヨーロッパ勢はヒヤヒヤしっぱなしの13世紀。
ところで、モンゴルはなんでそんなに強かったんだろうか?
遊牧民族に共通の機動性・兵法は言わずもがな。大穴の理由として「目がいい」ちゅーのもある。地平線近くにいる羊を見つけられる彼らの目のよさは、軍事的価値のある「兵器」ですらあったのである。
でもまあ、第1の理由としては、軍事・行政組織の完璧さがその理由だろうといわれている。
9万5千人の軍隊に対して、95の集団にわけ、チンギス=ハンはそれぞれの集団のリーダー95人にのみ命令を伝達する。千人の集団は更に10のグループに分かれ、それぞれのグループのリーダー10人に対して千人集団のリーダーが伝達、そして100人グループのリーダーが10人グループのリーダーに伝達…という、ピラミッド型連絡システムで、チンギス=ハンは集権化構造の基礎を作ってしまったわけである。
しかも、旧来のモンゴル民族が「氏族制」というシステムをとっていたところへ、このシステム(=千戸制)への変更。そんな変更ができるだけの力を持つチンギス=ハン。すごいぞ、チンギス=ハン!ブラボー、偉大な汗!
まあ、そういうスゴイヒトであるが、1227年、西夏を滅ぼした後「帰って今度こそ1金を落として中国進出するべや」とか言ってた帰途で病死してしまう。遺言は金の攻略法だったというから、よっぽど無念だったに違いない。ナ〜ム〜。
現在、チンギス=ハンの墓は、内モンゴル自治区イクチャオ盟のイキンホロ旗にあるらしい。んが、ここにはチンギス=ハンの遺体はない。あくまでもここは記念碑的な墓なのである。
んじゃ、彼の遺体はどこに葬られたのか?
モンゴルでは、ハンを埋葬した場所には塚や墓を立てないという習慣があったらしい。だけどそれじゃあ場所がわからなくなってしまうじゃないか。
一説によると、ラクダの親子を連れて行くのだそうだ。ラクダの親子を埋葬場所まで連れて行って、そこで子ラクダを殺してしまうのだ。すると、親ラクダはいつまでもいつまでも悲しがって、その場所に行くと泣く(鳴く?)ので、場所がわかるんだそうである2
てことは、親ラクダが死ぬ前に次の親子を連れて行って「引継ぎ」しないとならないわけで、忙しいときとか親ラクダに不慮の事故が起こったときとか、ついつい引き継ぎ忘れて判んなくなっちゃいそうだ。そして多分、それが判んなくなっちゃって、現在「チンギス=ハンの遺体埋葬場所は不明」なのであろう。
不明とはいえ、どこかには「ある」のである。
モンゴルの風習として、死後も現実と同じように裕福に生活できるようにするため、食べ物はおろか、天幕も馬も財宝も一緒に埋葬されたのだという。ということは、モンゴルのどこかに確かに伝説の男と、その男が持っていた財宝が埋まっているのだ。
それは今も発見されて「ない」、が、発見されてないということはまだどこかに埋められて「ある」のである。
それが、いまだにヒトビトのココロをくすぐるエッセンスになっているんじゃないかな。

  1. モンゴル帝国は、1214年金を攻撃して、滅亡寸前まで追い込みながらもナゾの反転をして、東西貿易路へ進出している。その割にはその後南宋の攻略にもモンゴル帝国はかなりこだわっており、執着を感じる。 []
  2. 高校時代の先生のハナシの記憶だけなので、スゴク伝聞調の表現でスミマセン []