▼1251〜84:鎌倉幕府第8代執権

北条時宗(Illustration:国守) 自分の前の執権の時代からやってきていた蒙古※1の使いをことごとく無視し、文永・弘安の役(元寇※2)の契機を作ってしまった。弘安の役後、再度やってきた使者・杜世忠ら(1275)や周福ら(1279)を斬殺したため、元軍10万の大襲来を招いた。
 その頃の日本は「やあやあ我こそは…」と名乗りをあげて戦う一騎打ちの時代だったので、元が大軍を成して突進してきたのにはさぞ驚いたであろう。運良く二度とも台風によって難を逃れたが、時期が悪かったら今頃日本人は中国語を喋っていたかもしれない。
 元寇の来襲に備えて北九州の沿岸に石塁を築いたり、御家人・非御家人を問わず軍事に動員したりしたが、その後の恩賞給与ができず、御家人のヒンシュクを買ってしまう。これは御家人の不満と窮乏を招き、幕府崩壊の遠因ともなった。
 また、この時に台風で救われたことから、日本は神の国だとかいう思想(神国思想)が芽生え、江戸時代・明治を経て国家主義的神道へと続いていくのである。


※1 フビライ汗が即位して世祖となり、国号を『元』としたのが1271年なので、それ以前を「蒙古」、以後を「元」としました。
※2 「ぶんえいのえき(1274)」「こうあんのえき(1281)」をまとめて「げんこう」という。