▼1305〜58:室町幕府初代将軍

足利尊氏(Illustration:国守) 尊氏は清和源氏の流れをくむ源義家の家系に生まれた。もとの名は高氏。彼の祖父は足利家時。幼名 又太郎。
 京都にて室町幕府を開くのは1338(延元3・暦応1)年。彼こそが後醍醐天皇と並ぶ「南北朝」※1の立て役者(在位:1338〜58)。
 さて、後醍醐天皇の3度目の反乱が起こり、幕府は鎮圧部隊を京都に送ることにした。「お父さんが死んで喪中だから」「病気療養中だから」と、なにかに付けて拒んでいた尊氏も、ついに鎮圧部隊に参加する事になった。しかし、足利家は源平合戦以来、皇室領足利庄の預所(管理役)を勤めていたので、皇族とは仲がよい。幕府は彼の裏切りを怖れ、妻子を人質に取ってしまった。このまま残るか、可能性を求めて朝廷側につくか、彼は鎌倉を出るとき、まだどちらにも決めていなかった。
 結局、尊氏の裏切りにより鎌倉幕府は自己崩壊。権勢の頂点には後醍醐天皇が立つ訳であるが、その後の帝は尊氏にはあまり感情移入していなかったようだ。恩賞は「尊」の


※1 尊氏が北朝「光明天皇」、吉野にこもった後醍醐天皇が南朝を両立した時代を言う。しかし北朝側には三種の神器がなかった。尊氏に詰め寄られ、「返す」と言っていた後醍醐帝が隠し持っていたからである。おかげで、南北朝が合体するまでの北朝の天皇は、北1、北2と付記され、代々の天皇とは別に数えられている。元号も二つあって、当時の庶民にとっては全然関係のないことだったが、現代の受験生にとっては、はなはだ迷惑な話である。
 「南北朝」というと、鎌倉時代の両統迭立(りょうとうてつりつ)時代まで含めて言う場合がある。当時、大覚寺統・持明院統の皇位継承争いに、鎌倉幕府の干渉が入り、両統交替で皇位に着くようになっていた。
 南北朝の合体は「一休さん」で有名な足利三代将軍義満の時。
※2 国守の愛する寺の一つ。観光地京都嵐山にあり、世俗を忘れさせる庭をもつ。(夢窓疎石作)池の鯉もかわいい。一見の価値あり。
※3 天龍寺船には博多の商人達が乗り込み交易を行っていた。幕府は海賊から船を守るかわりにサービス料を徴収。当時海賊は「倭寇」と呼ばれ、朝鮮・中国沿岸部を荒らし回っていた。