▼1360〜1424:明朝皇帝

永楽帝(Illustration:マスダ) 明朝第三代皇帝(1402〜24在位)にして明の最盛期を現出したヒト。
 もともとは彼は明朝創始者洪武帝(朱玩璋)の第4子。2代目皇帝が洪武帝の孫である建文帝になったので、本当なら永楽帝(当時は燕王)に皇帝のお鉢は回ってこないはずだったのだが、建文帝が彼の領地を取りあげようとしたため、意を決して反乱を起こし(1402年:靖難の変)即位した。建文帝は火中に身を投じて死亡する。
 実際永楽帝は人望のある人物で、何も恐がることはなかったのだが、可哀想なことに彼は頭が良く、人一倍「自分が皇帝(しかも甥)を殺して即位した」ことを気にしちゃっていた。絶えず「ヒトが自分を簒奪者として非難しているのでは?」と気にしていた。
 そこで人々に靖難の変のことを忘れてもらおうとして、大運河改修や永楽大典の編纂、首都移転やモンゴル遠征などを矢継ぎ早に行い、それが成功していくに連れてようやく安堵の日を迎えた。
 そんなときである。永楽帝の耳に一つのウワサが飛び込んできた。
 「ベトナムあたりで建文帝が生きているらしい」
 火中に投身した建文帝は、結局遺体の確認が出来ない状態で「まあ死んだだろう」ということになっていただけなので、これはただのウワサだと片づけられないものがあった。しかし人々が折角靖難の変のことを忘れてくれたところなのに、こんなときに「建文帝捜索隊」は出せない。
 そこで永楽帝は「南海諸国に朝貢を促す」という名目で大艦隊を結成、腹心鄭和に全てを託して大遠征を行った。1405〜22の約15年に渡り6回も遠征が行われ、最後にはアラビア・アフリカ東岸にまで達してしまう程だった。おかげで驚いた南海諸国から朝貢が相次ぎ、明は南海貿易で大繁栄したが、結局建文帝はみつからなかった。
 見つからなければ「やっぱり死んでいたんだな」で済みそうなものだが、6回も派遣しているところを見ると、永楽帝は最後まで「でもでも、もっと遠くに逃げてチャンスを待ってるのかもしれないし…」と心休まるときがなかったんだろうなあ。ちょっと可哀想なヒトだ。