▼1646〜1709:江戸幕府第5代将軍
3代家光の4男、家綱の養子となり将軍職を継いだ。
江戸湯島に聖堂を建てそこに林家の私塾を移し学問所(のちに東京大学発祥地となる)とするなど、学問を好み朱子学を官学とした。また、自ら家来衆に講義することもしばしば。
はじめ、堀田正俊を大老とし文治政治を行ったが、嗣子が死に、その原因が前世の殺生にあると聞くと、護持院の隆光の勧めに従い男子誕生を願って、生物殺生の禁令(生類憐れみの令)を出し社会を混乱させた。
おまけに器量のない側用人柳沢吉保に実権を任せたため、そのまた器量のない勘定奉行荻原重秀の進言を聞き入れてしまうことになり、年貢は増すわ、悪貨は乱発するわ、もう踏んだり蹴ったりされたのはお百姓さんであった。
綱吉の身長は、歴代将軍の中でも低く、124センチだったそうです。なお歴代将軍の身長は、将軍家菩提寺である三河国大樹寺にある位牌が歴代将軍の身長と同じ高さなので判明します。
萩原重秀の記述は彼に気の毒では。
彼は有能な経済官僚であり、自身が主導した貨幣改鋳政策はその初期においてはむしろ成功したといって良い。
彼の悪評は、経済面では無能なくせに後世の評価が高い新井白石の著書でこき下ろされたことと、彼の政策を理解せず、税収増のために貨幣の改鋳を無秩序に行った綱吉及び彼の取り巻き官僚の短慮が原因と見るのが妥当と思われます。
井沢元彦の「逆説の日本史」や山室恭子「黄門さまと犬公方」(後者はこれを書き込んでいる今現在なぜかAmazonの広告がこの頁に出ているが、偶然か?)を読んだ人はこの綱吉像には賛成しないと思いますが。