▼1823〜99:江戸末期の幕臣

勝海舟(Illustration:国守) 通称麟太郎。本名は義邦、明治に入ってからは安芳といった。海舟というのは佐久間象山から贈られた書『海舟書屋』から取った号で、本名ではない。
 父小吉は旗本という身分では有ったけれど、とても貧乏していた。しかし、面倒見がよく、腕も立つので、江戸本所亀沢町ではちょっとした人気者だった。
 9才くらいの時に塾の帰りに犬に睾丸をかじられて死ぬ思いをし、それ以来犬は大嫌い。直心影流島田虎之助の元で剣術を学び免許皆伝。苦学の末、蘭学を学び、咸臨丸でアメリカに渡り見識を広め、海軍奉行の職に就いてからは海軍操練所を開き人材の育成にあたり、幕末の争乱にあっては幕府・朝廷の間に立ち江戸無血開城を成し遂げるなど…、素晴らしい働きぶりである。
 新政府の要職を退いてからは、政治界、経済界など多くの人間が引切り無しに彼を訪ねてくるので、誘われても泊まりの旅行には出なかったとか。実際、数々の政策は彼の助言の元に行われることが多かった。
 …が、こんな素晴らしい彼ではあるが、実はかなりの癇癪持ち。
 気に入らないときは家中の者に説教をしてまわり、憂さを晴らしていた。しかも、長いときは一週間ほど口をきかずにいたというかなりの根性の持ち主。また、出かけると何処から帰ってくるのか予想が付かないので、家中のあらゆる戸口に一人ずつ使用人が寝ずの番をしていたりしたとか。そして、左の4コマは実際にあった話である。
 海舟は徳川幕府がつぶれないように知恵を絞っていたということで、尊王攘夷をスローガンとする倒幕派に命を狙われたことも数多くあった。人斬り以蔵として有名な岡田以蔵は彼を斬りに行って逆に諭された内の一人。『海舟座談(岩波文庫)』附録によれば坂本龍馬も彼を斬りに行き、そのまま弟子入りしたとか…。


※元々攘夷論というのは幕府が封建体制を強化するために奨励し盛んとなった思想であり、外国撃退を主張する封建的排外思想であった。しかし、黒船でやってきたペリーやハリスに押されて幕府が開国策を打ち出すにあたり、尊王論と混ざり合い倒幕派のスローガンとして使われるようになってしまった。以後、「なにかにつけて尊皇攘夷」の世の中となると、幕府は「公武合体(公=朝廷・武=幕府)」で対抗した。