▼BC145〜BC86:歴史家

字は子長。『史記』の編者として有名である。
『史記』の構成は「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻。上古から漢の武帝の時代まで総計130巻になる中国最初の通史である。
司馬遷は周代から続く史官の家に生まれ、二十代と中年の働き盛りの頃の二度に渡り各地をまわり、史跡をたずね歩き資料・文献を収集した。当時口伝の歴史も多く、超自然現象なども歴史の一部となっていたけど、彼はそれら怪異現象についてはさらりと流し真実のみを記録するよう努めている。
『史記』は初めて「紀伝体」で書かれた歴史書であることは有名である。『史記』の手法は個人を主体として歴史を書いたものであり、人間が歴史を造り、また人は歴史の中で翻弄された事を著す司馬個人の考えによるものであろう。
当時彼のついていた太史令という職はほとんど占い師扱いされておりいわば「ちっぽけな」役職だった。仕事柄歴史を記録するというようなことは求められておらず、この国家的歴史編纂大事業ともいえるものは遷の父司馬談によって興され息子に引き継がれ完結した。つまり全くの個人事業だったわけでその辺すごいよね。
この事件は匈奴討伐に出た将軍李広利の輜重部隊(補給部隊)として送られるはずだった李陵がそんな情けない役は嫌だ追撃部隊として行かせてくれと武帝に申し出、許され出撃したことから始まる。この李陵という人は飛将軍1として有名だった李広の孫。武勇にすぐれた人であった。そんななので輜重部隊なんていやだったんだろうけど結局李広利も李陵も惨敗。最初は李陵にやんやの喝采を贈っていた宮廷の人々は彼が寝返ったと知ると今度は非難囂々。そんな中、司馬遷ひとりがそんなのってないんじゃない?と言って武帝の怒りを買ったというわけ。
もっとも誤解のないよういっておくけど司馬遷は宮刑(男を去勢する刑罰)に科されたから怒りに燃えて歴史を書きまくったわけではなく、情熱を持って書いていたらたまたまそんなことに遭っちゃっただけである。
この事件に興味のある人は中島敦の「李陵」を読んでみると面白いかもしれない。

  1. 李広という人は石を弓で射抜くくらい強い人だった。(どんなたとえだ?)つまり弓の名手でした。 []