▼1863〜:日本

新撰組(Illustration:マスダ) 新撰組の剣法は天然理心流。北辰一刀流や神道無念流等の志士たちを京の路上でバッタバッタと斬りまくった。…というのが万人のイメージ。
 このイメージとギャップがあって楽しいのが新撰組誕生の理由。これが「倒産」※1
 幕末、欧米列強と和親条約・修好通商条約※2を締結。鎖国がおわり外国の文化がどっと流れ込んできた。その文化と一緒に麻疹とコロリ(当時はあっという間に「コロリ」と逝くのでコレラを「コロリ」と呼んだ)もやって来たからさ?lt;br> ?臺僉? 人の流れに沿って、ずんずんお江戸にもやって来た。まず、天然理心流近藤勇道場「試衛館」裏となりの伝通院の坊さん、「ちーん」。田舎剣法近藤道場のご近所はまさに麻疹・コロリ地帯。しかも時代の流れは急激で、人々が稽古にうつつを抜かす余裕がなくなってきたのでしょうか。
 そんな時、出羽浪人清川八郎※3発案の「浪士組」が江戸で求人募集していることを聞きつけた。いっちょ参加してみるか…。
 浪士組は当初表向き将軍上洛のための警護目的(本当は当時京都で浪人による天誅が流行っていたのでそれらの統制をとるのが狙い)で募集されたんだけど、落ち着き先である京都壬生村につくや否や、浪士組は将軍護衛ではなく天皇の私兵を目的とするとの清川八郎の発言。「なんじゃそりゃ」とみんなが思った。しかし、その時の清川が人でも殺しそうな勢いだったので恐くて何も言い出せなかったのであった…。結局清川はこの件を朝廷に上奏してしまい、その中に「幕府をないがしろにした箇所がある」ことがきっかけとなり、芹沢鴨※4、近藤らのグループと対立するようになった。
 そんな中浪士組は「帰還せよ」と幕府からの命を受け、京都に来て1週間もたたないうちにお江戸へ帰ることになった。「なんじゃそりゃ」と思った芹沢・近藤らのグループは京都残留を決める。
 こうしてまたも失業の危機にさらされた近藤ではあるが、浪人奉行の口添えで京都守護職である会津藩主松平容保※5にその身を預かって頂くことになり、やっと落ち着くことが出来たのであった。「新撰組」への道は険しいなあ。


※1倒産だったら面白いんだけど、本当は「事実上倒産」といった方がいいかもしれない。あの沖田くんが近藤の借金に使いっ走りしたと書かれている資料もあるが、近藤出立のギリギリまで同じく浪士組に参加する知人が道場に挨拶に来るなどしているし、道場から何人参加するか?と聞かれていることから「潰れた」のではなく看板となる腕っ節がいなくなったので当然門下生も減った…。「事実上閑古鳥」と見るべきでしょうか。
※2黒船来航の項、注釈参照。
※3もともと尊皇攘夷運動に参加していたこの人、寺田屋事件(薩摩藩内の尊皇攘夷派が薩摩藩主によって殺害鎮圧された。当時薩摩藩は幕府側にいた。)に失望し、今度は浪士組(幕府側)結成に参加。「でもやっぱり尊皇攘夷よね」ということで近藤・土方らと対立。のちに暗殺されてしまう紆余曲折のヒトであった。
※4後に芹沢は近藤達に粛正(暗殺)される。
※5当時京都守護職。一貫して佐幕派の中心人物として活躍。あの白虎隊(青龍・白虎・朱雀・玄武と4隊あり年齢別に編成。)の会津藩である。会津戦争で降伏するまで幕府側にたち、新政府に抵抗した。